まちづくりクリエイター
加藤 悦生
万事塞翁馬
何事も根気よく取り組んでいけば
良いときも悪いときも、
悦びながら生きていくことができる。
人間万事塞翁馬
親方になって色々なピクニックに出かけた。男として親として社長としていろんなことを仲間と一緒にやってみる。
悔しい思いと僅かな悦びを何度も繰り返しながら駄馬の心意気を創ろうとした。
どうしたら上手くできるのか辿り着いた思いは、「一喜一憂している場合じゃない。やるべきをコツコツやるだけ。」
自分は何モン?
自分がどこから来てどこへ行くのか?
どう生きるのかを考え始めたとき、ノイローゼの旅が始まっていた。こどもの時代から大人の時代へ突入すれば、言い訳が苦しくなる。つくづく自分の未熟さとできの悪さを感じざるをえない。かっこつけていても上っ面だけで見透かされる。足りない自分に気づかされる。何が足りない?それは努力の数だよ。
自分を甘やかすことは得意だ。あきらめの境地も開き直ることができれば、どうってことは無い。しかし、努力の差は歴然だ。
社会人の競合競争の世界では評価の決着は残酷である。言い訳もできない。やればできるのだから、やらないことは言い訳にならない。なんて無能なのか……嘆いていても始まらない。少しの勇気をもって進めば良い。
明日の元気さえ湧かすことができれば、また明日頑張れば良い。そんな繰り返しでも人生は拓かれるのか?自問自答の繰り返しで問題の解決は図ることができるのか?悩みはつきない。
三日坊主
思い立ったが吉日のモチベーションでは三日坊主に終わる。これは幼いころから一緒だ。
初日やる気満点の朝は頑張る!お昼を食べて気合いを入れ直し、お茶を飲んで一服……一日の中でもモチベーションは上下乱降下する。そして疲れて一日が終わる。
二日目、「さあ、今日も頑張るぞ!」疲れはすっかり癒えた。うまくいきそうだ。しかし、どうも空回りして成果が見えない。やり方がダメなのか?すぐに結果は出ない。また明日頑張るしかない……。
三日目、今日こそ頑張るぞ!もう少しやり方を考えてやれば何とかなる。これでどうだ?!これも違うようだ。困ったぞ。ちょっと一服してみよう。うまくいかないと疲れもどっと出る。まあ日を新たにしてやれるときにやればうまくいくかも……。
自分のやる気はせいぜい三日しかもたない。
モチベーションはルーティンで
自分のやる気はせいぜい三日と気づかされることになるが、三日で終わってしまえば元も子もない。どうしたら良い?三日の繰り返しでモチベーションの継続を図る。始まりは日曜日月火水、水曜日にまた気持ちを創って木金土で一週間。これならば、三日坊主でも継続できる。
このパターンを自分のものにするためルーティンとすることができないか? ある日TV番組で東大生の勉強法をやっていた。東大生の脳力は特別なもの?勉強時間の質を向上させていくことだと言うが、理解力と記憶力覚えることは質が違うと。覚えるための要する時間は必ず必要であると。すなわち記憶力がどれだけ良くても詰め込む量や時間短縮には限界があるとのこと。要は単純に時間がかかるモノは時間を費やす時間を創るということ。
ルーティンの創り方は時間の創り方である
時間創りは計画を立てることから始め、時間の制限を課すことである。
よき習慣は良き人格を育む。夢や計画を立てることから始め、人生を謳歌するためにはルーティンを創ることから成長させる。どんなに賢くても毎日やらなければできないのだから毎日やることの重要性を確立することである。私がルーティンを意識し始めたとき、「どうやって時間を創る?」と思い悩むも、「時間は一日24時間。しかし人生に割り与えられた時間は均等では無い。」
時間の概念に人生の概念が芽生えたときにやはり時間の重みを感じたのである。「ぼーっとしてる場合じゃない!意味のある時間、意義のある時間にしなければならないぞ!」。
集中とスピードに着目する。24時間で取り組むことの容量を増やさなければ、駄馬の容量は、荷役容量のままであるから、やはり向上させるためには努力時間を増やすことしかない。
昔からよく言われたことであるが、人の二倍三倍努力しなさいと。これは、難しい!そもそも誰がどれだけ努力してどうなっているのかも、水準はない。いわゆる普通と上出来の差はいかばかりかと。凡人たるゆえんはここに在ると思う。
毎日の積み重ねが差を生む
「ローマは一日にして成らず」人生もやはり同じということ。毎日のことをしっかり取り組んでいかなければ大成しないのは歴然である。 24時間ルーティンの組み立て方を見直すことで、駄馬なりの進化法を見つける。まずは、24時間でやっている原状をおさらいして、取り組みたいやるべきことの計画を組み入れてみる。当然どこかを削り足していかなければならない訳であるが、単純な足し引き算ではままならない。やはり「効率よくすること」をトレーニングしなければならないから難しく感じるが、よく考えてみると単純である。元々、一夜づけレベルの駄馬であるから時間が来なければやらないし、そうかといってやればできる範疇もある。
そりゃそうだ。集中してやればやった分は何とかなる。しかし、全体量は劣る。だから、やるべき全体量を見積ながら、やればいい。そもそもの処理能力には遜色のないレベルはそれぞれ持ちあわせているはず。やり方を身につければ、あとは何とか成る。
24時間を1/4で考えて見よう!
足りない時間を見つけたら自然と見えてきた。まず減らせる時間を見つけていくとする。これは簡単である。努力していない(頭を使っていない)時間を見つけることからはじめる。一番は睡眠時間。二番は庶務雑用時間。8時間寝ていたら1/3。顔洗って歯磨きして、ご飯食べてTV見て、通勤してお茶飲んで、お風呂入ってくつろいで……1/3。なんやかんや取り組むべき時間は、残りの1/3の8時間しか無いではないか?普通仕事の勤務で8時間。これでは、駄馬のままルーティン。睡眠時間は6時間の1/4 雑用、食事はサッサと済ませて6時間の1/4。さあ、 時間できた!!大いに仕事して大いに遊びましょ!
大いに生きる
人生は大いに生きるのがよろしい。おもしろおかしく明るく楽しく元気よく。これが私の根幹にある基本の考え方である。しかしながら、常に大いに生きることが?の連続となって環境に任せて右往左往し、「いつもながらのこんなモノだろ」と言う自己理解との狭間で行き来するのでここに成り行きの境地が存在する。人生の90%は自分の思うとおりにはコントロールできないと聞く。はて、それでは大いに生きるとはどういうことなのであろう?このことを考えていつも何時も自己問答を繰り返す日々である。そこから哲学が生まれてくるのである。べつに、哲学がどうのこうのではないが、大いに生きるためには、どうあるべきだということを考えていると、どうも楽しいことになってくるのだ。
人生が進化していくような気になってくるのである。自然の流れから頂いた命を大切にしようと感じることから、人生を考えることに苦痛を伴うことが無くなる。まぁ良いときもあれば、悪いときもある。
万事塞翁が馬に辿り着いて、せいぜい自分のやれることを、大いにやればよろしいと悟りの境地に達したかの考え方で動いているのである。どこかで、限界を知りどこかで可能性を感じることの連続は、何時までも続いていくことであろう。その範疇、度合いを「大いに」と変えているだけのことであろう。いずれにしても、人生は90%がコントロールできないモノならば、たかが自分のできることは10%という程度の知れているということである。その中で、精一杯やれることを広げていくことで、ちったぁ自分の頂いた命というモノが、生まれ甲斐があるというか成仏するのではなかろうか。世のため人のため私心無く滅私奉公しようとする心構えも、大いに生きようとするところから生まれ出てきたモノである。
まちづくりの広告
日本アドシステムの始まり
春の嵐到来
昭和63年3月春休みのころ、新たな仕掛けでTV局のイベントを実施することになった。
当時、東京原宿でブームになっていた「タレントグッズ」を名古屋に持って来られないか?プロデューサーとプランニング協議を重ね、出店交渉に出向き実施へ。久屋公園広場での開催となった。 8店のタレントショップの交渉を取り付け、広場にテントブースを並べ原宿でしか買えなかったタレントグッズの販売会のイベントである。
難航したショップ設営、商品搬入を終えた前日の夕暮れのこと。プロデューサーから、「今夜雨風が強くなるが大丈夫か?」と。天気のことは大丈夫だと高をくくっていたところに冷や水である。
私は31歳になっていた。若いころは、やはりイケイケである。リスク管理やヘッジを考えるより行動であった。確かにテントブースである。風には弱いし横殴りの雨も怖い。設営を終えたにもかかわらず撤収することになったら……天気予報とにらめっこであった。
会場警備は夜間巡回だが、安心はできない。大過無いことを願うしかないが、夜中に風が強くなり雨も降りだした。寝ていられるわけがない。
現場に向かいテントブースの状況を確認しつつ、降り込む雨に商品が濡れないよう移動させながら、一人テントブースのお守りをして時間を過ごした。2〜3時間様子を伺いながら早く朝が来ないかと待ちわびた。
晴れ男
翌朝、開場を控えスタッフ、関係者が入り準備にかかる。お天気も回復し一安心だ。準備が進むころ会場入り口を見ると、ナント行列が。会
場を待ちわびているお客が列をなしているではないか!バーゲンセールではない。やはり、タレントの人気があるからこその動員力である。どこまで売れるのか?楽しみな企画となった。
風雨夜中の苦悩が晴れた!それから、私のイベントは晴れである。(山あり谷ありではある)三日間大盛況のイベントとなり、評価を頂戴することになった。
このイベントの成功によって、次のステップの目論見が現実となった。
それが、日本アドシステムのスタートに運気を与えてくれたのである。
世界デザイン博覧会へのタレントショップ出店の提案が受託された。白鳥会場と港会場への期間中出店だ。
動員が見込めるイベントとしての出店でTV局コラボのもと運営がスタートすることに決まった。博覧会協会に提案した企画書は、たったの手書き3枚。春のイベント成功を踏まえ評価してもらったのである。機会を得て創業となった日本アドシステムの始まりはタレントショップである。
三十而立/まちづくりの広告
大学を出て広告代理店勤務の20代から30にしてフリーに。
やめたくてやめた会社でもない。独立したくてやめたわけでもない。やはり、30歳の頃合いなのだと。
地域に貢献する仕事を。名古屋のまちを豊かにするムーブメントを。全国展開を図る交通広告代理店のキャリアを経て、メディア、販促、制作のノウハウを覚えるが、何より勉強になったのは、「挑戦することの大切さ」であった。「し続ける挑戦」こそが生き様になる。
やはり社会貢献の名の下に企業の存在意義があることを知り、そこに自分の存在意義もあると知る。広告は、企業の販促の手段としてメディアを通じてPRすることが多い。大手企業からまちの商売までスポンサーは幅広く、広告の取り扱いメディアは多岐に亘る。
その広告業界に自の存在証明を示すことができるのか?どうやって示すのか?答えを選んだのは「ローカルマーケティングをお届けしよう!」駄馬の答えである。
1989年昭和から平成へ。元年6月1日の設立となった。
日本アドシステムのネーミングポリシーとして、「地域社会貢献(名古屋に対して日本と言う捉え方)へ
広告のノウハウを活かした繁盛の仕掛け仕組みの提供を基本として、
「ANYWAY COMNUNICATIONします!」とした。親爺衆と仲間の後押しを得、株式会社としてスタートすることとなった。
中区に事務所を設置
TV・ラジオ局が近くにある中区東エリアに新栄がある。得体の知れないどこの馬の骨とも解らない駄馬にも、多少の構えが必要だ。
名古屋で初めての高層ビル?高層ビルとは何階以上のことを言うのか定かではないが、雲竜ビルはまぎれもなく高層ビルで有りステータスを放っていた。そこに事務所を構えることで駄馬カモフラージュである。狭く古い低層ビルの東館の一室でスタート。一年で二室になり、三年で西館の高層ビルへ移ることになった。平成の時代30年は新栄人である。新栄は路面店も多く人の顔が見えるまちである。
フリーペーパーとクーポン広告
創業の大事業は、デザイン博覧会であった。運営スタッフの確保と管理は長期に亘り4ヶ月間走った。
その間に次の手を講じなければ存続はない。イベントの仕掛けは簡単にはいかない。単発のイベントはとにかくこなす。しかし、広告のクライアントを増やし継続性のある事業を展開しなければならない。ローカルマーケティングには地域メディアの活用が必須。中日新聞を始めローカルエリアの情報を提供できるメディアとしてミニコミ誌がちらほら存在したが、雑誌型の生活情報紙も誕生した。イベントスタッフが引き上げてくるころに、ムック型生活情報本の編集請負や広告営業に着手した。定期継続広告の始まりである。
チークやケリーの発行。地域に必要な情報と豊かな文化を届けるための、ローカルメディアは成長を遂げていくはず。とかくTVや雑誌は名古屋飛ばしの情報が多くつまらない。新聞はローカルである。中でもチラシはエリアである。
以前より、仲の良い編集プロダクションがあり、朝日新聞へ挟み込みをしていたフリーペーパーを発行していた。広告を出広していたこともあり、つきあいをしていたが大した商いにはなっていなかったが時代は移りゆく。
1990年10月
新聞クーポン広告の解禁
ローカル情報の広告出稿を細かに営業を進め、イベントを仕掛けながら事業展開の策を練っていた。
アメリカのトレンドは?東京は?すると、新たな広告の規制緩和が。それが、新聞のクーポン広告掲載可能となったことである。やはり、アメリカンナイズされてきた。アメリカのクーポンブームはすごい!
25歳リーダーとしての資質を
小僧の営業マンとして明日を夢見る時代に、決意をしたことがある。
「たばこをやめる。太らない」。若き駄馬の青年は悩んでいた。「できない!もっと上手くなりたい!」これまでにもそれなりの努力や工夫をしてきたつもりでも、三日坊主。「このままではダメだ」
何かを変える!きっかけはアメリカの風潮。「リーダーシップを取る人は、まず自己管理をしっかりしなければならない。」たばこはやめた!太るほどはないからいいとして、身なりは清潔に。だから変わったわけではないが、恥ずかしながら 20代で局長になり支社のリーダーとして歩むことになった。やらなきゃいけないことを無理を承知でやってみた。無理も長続きすれば良いが、そうは問屋が卸さない。ストレスがたまる。体調不良をきたす。暴走運転に巻き込まれフロントガラスを突き破る事故に遇う。むち打ち症候群の中26歳で結婚。家を建てる。仕事に追われる。忙しすぎた……。
ストレス時代を、胃薬と酒で乗り切ることはできない。
心と身体のバランスを整える術を知る
心技一体ということもあるが、技術以前に身体の健康があってのことである。アンバランスの修復を図る術が欲しい。崩れた原因と症状はどこにあるのか?改善できる方法はあるのか?やはり根本的な問題の自覚と共に対策法を考えることである。25歳頃からの求道心が私のビジネスの根幹に成った。
1.問題意識を持とう。
1.問題提起をしよう。
1.問題解決をしよう。
問題を明確にして解決を図らなければ、問題だらけのほったらかし人生となってしまう。やれることから少しずつやる。やれることを見つけて一つ一つ取り組んで行けばいい。駄馬なりに無理をしてバランスが壊れた経験の中から、覚えた術である。この明確にするための整理術は、生涯の術と思っている。「心の整理をする」ノイローゼを脱却する術として、「自分はどうすれば解消できるのか?」固有の状況をふまえ見つける為に探した。「どうしたら良い?」焦りと苦痛の時代が続く。
心を解き放つ「忘れるダイアリー」
時間の整理は必須であるが、如何せん心の整理がおぼつかない。「やらなきゃいけない」ことへの恐怖心を払拭するためには、どうしたらいい?逃げるわけにいかない。どんどん自分を追い込んでいく。慣れればよし。キャパができてくればよし。一番の悩みは眠れないこと。明日のことを考えればやらなきゃいけないことが襲ってくる。
ノイローゼ症候群時代に光明が差したのは、少し身体を動かせるようになったころである。
事故によって左腕6針左肩挫傷、むち打ち首頭痛、腰痛がでていた。小さなころから唯一の得意なモノが「体育」であった私にとって、いうことがきかない身体は最大のストレスでもあった。ストレッチケア体操に取り組んでいき馴らしながらスポーツを再開する。テニス、野球、ゴルフ……上手くいかない。
しかし身体は正直だ。「よく寝られる!」ストレス解消にスポーツはいい!見つけた。見つかったのは「寝られれば、リフレッシュできる。」こと。しかし、毎日の中で筋肉痛になるまでのスポーツはできない。
眠るために忘れる
スポーツで集中しているときに、邪念はない。身体が疲れたら休む。当たり前のことを普段にできるようにするためには、どうしたら良い?「忘れること。」忘れるためにはどうしたら良い?「頭から切り離せばいい」脳は心のままに動くわけではない。脳の記憶を駆使することをコントロールできれば、心のコントロールにも繋がるのでは?そして、メモリーすることをダイアリー作成によって代替した。とにかく、やらなければならないことを書き出して解るようにメモした。このルーティンが私のビジネスも支えている。
時間はかかるができるようになれば、永遠のハウツーである。論理的に物事を考え、アイディアを立てて取り組む。
学びと教え気づきと智慧
心のスポンジを持とう
人生を「大いに生きる」として、学びが教えに変わることに気づいた。教える為に学ぶ方が自分のモノになりやすいということ。主体性を感じることで学ぶ心構えができることになる。起業して社員と共に成長を遂げていこうと決意したときに、一緒に成長するための学びを得なければならなかった。それまでも、リーダーシップは主体性と感じつつ、雇われ日和見の甘えが存在する。「自分がやらなきゃ誰がやる!」言い訳のできない環境においては、取り組むべきことは単純明解。シンプルに人のために自分がやるべきことは学ぶこと。気づきは意識ができてくれば来るほど、「心のスポンジ」ができてくるモノだ。
心の教科書を持とう
私の心の学びは、両親兄弟はじめ先生、仲間との時間によるOJTである。
OFFJT教科書には、孔子の先生がいる。どれだけ勉強したのかと言えば、恥ずかしい位のモノである。有名な人の言葉を知ることで博学なイメージができる程度のことで、語るに足りぬこと。ただ、30歳の決断、人生の岐路に立った思いのときにそばに居たのが孔子であった。それからの人生は、いつも10歳刻みで捉えることにした。40にして 50にして……いつも10年遅れの感じであるが、自分を見つけるテーマには非常に役立っている。
経営者としての師は、松下幸之助。
これは、大学時代から発行され題材にされたPHPの影響かもしれないが、経営者になったころからは特に心を寄せてその信条を考えた。 「素直な心になるために」を以て愛読書とし、「成功の金言365」を以て一年の読本トレーニングを敢行し、306Pにも亘る所感をしたため心づくりをした。
心の教科書によって哲学を感じることで、自己の存在意義を考えることはとても有意義である。
読書は苦手だが、読本トレーニングは進めることができた。やはり本は見るだけじゃ無く、書くことで思いは深くなり、実践して刻まれるものであろう。
中庸の世界、センター理論
イケイケの時代から真価の問われる時代へ突入した。
日々決断の選択肢が多くなった。安定を図る、成長に挑む。右に左に上に下に……この判断を迅速に行わなければならない。 照らしあわせる意見やアイディアは多すぎるほどある。悩み迷うはずだ。朝令暮改それもよかろう。
私は、男兄弟 人の末っ子である。自分の意見は反映されない。やはり唯一の方法とすれば、おねだりである。だだをこね母親を落とす。こどもの世界であるが故のことだが大人の世界でも見かけることだ。忖度することはあろう。
しかしながら、無理難題をごり押しできることはない。仮に独断と偏見で成し得たことだとしても、時が検証していく。適正化されるのが常である。
多数決もあろう。兄弟の右左を見ながら育ったことは、要領を得る手法に大いに役立った。「真ん中を探す。前を探す。」それが私の判断する術である。
提唱する「triangleメソッド」もそこから考えられている。人と人とが智慧を出し合い、成功を見出していくために、どうしたら良いのか?答えはシンプルである。
自ら考動 常に快革
私たちは常に快革と進化と遂げていくカンパニーである。
REVOLUTION&EVOLUTIONを「R&EVOLUTION」の造語総称とともに社是を起案した。
創業して10年が経過される中での思いである。毎年ながらスローガン理念にテーマを掲げ遂行してきたがやはり取って付けたような言葉は面白くない。クリエイティブは面白くなければならない。独りよがりの迷走もあるが、10年に亘り培ってきたマインドの言葉とした。明解にしながらオリジナルな発想を。
自らという「主体性」。考動という「考えて動く」。常にという「日々の根気ルーティン」。快革という「快化の努力挑戦」である。
「R&ESOLUTION」
基本の実践新世快革
2000年時代を迎え 世紀の新世紀スローガンとして選んだ言葉は、「時代が変わっても基本は大切に」である。
社是を踏まえ時代が変わっても、常に進化を遂げていこうと唱和している。平成10年1月からフロアーを統合して新たに事務所の拡大をした。そこから現在なお20年以上に亘り月曜の朝礼+スピーチを行っている。
週初め月曜は私の担当。月間4.3週×12週×20年=1060回をクリアしていることになる。それと共に、下書きの原稿が1Pずつ保存されている。その1Pの積み重ねで毎週続けて社是となりスローガンとなった。毎日思うことをメモに取り、ダイアリーを使った。朝礼の度に原稿を書いた。プロになる為にはルーティンにできるかどうかだと知ってからは、ぶれないように続けられた。
一回やればプロ
何事も初めてのときは素人だ。成功するか失敗するかは準備練習次第。本番の緊張感はやはり経験しなければ、受け容れられない。しかしながら、一回やれば勝手がわかる。どうやってコツを掴むかである。それを、いつもできるようにするにはルーティンでの鍛錬が必要だから、自覚して取り組むことがプロとしての一歩であると思う。だから、一回やったら今度は自分から率先してやれるし、何より人に教えることができる。
机上の理論は練習できるが、やってみなければ実感は得られない。繋ぐ為の経験を得ることができれば、自分だけで留まらない「共有の芽生え」が、プロへの第一歩となるはず。人のお役に立つ仕事の仕方は、人に繋ぐ意識づくりであろう。
まちづくりの広告
広告を通じて「感動のコミュニケーションを」提供し、商売繁盛のお手伝いをテーマに、連合広告の企画をターゲットにあわせて、時流で立案展開した。広告の手法として見て読んで楽しめる、出かけたくなる情報としての構成を考え、口コミ喚起の記事体を引用した。フリーペーパーは無料配布の新聞であるが故に、大半は広告によって紙面が構成される。有料配布新聞はニュースが主で広告はスペース活用事業であり、目立つことで広告効果が期待できた。 記事と広告が連動されることは、マスコミ報道の倫理と一線を引く為にも、社会的テーマを特集としてとりあげられるときぐらいである。マスコミを通じて企業のPRをすることは、社会的信用ステータスを得ることと同じように効果を発揮した。もっと、マスコミを通じて広報を……その欲求が、ペイドパブリシティいわゆる記事広告を創る流れを呼んだ。いち早く取り入れて風土を創ったのがリビング新聞である。広告を読み物にして効果的なPRを図る。そして、クーポン広告。まち型の商売を支えるコミュニケーションの在り方を追求して、まちづくりの広告は広まりメディア戦争が展開されていった。
心からの思い、言葉
広告業界への就業を決めたとき自分の目指すことやりたいことを探った。やれることなど大したことは無い。当時コピーライターが注目されていた。「クリエイティブなことがしたい!」看板営業セールスをやりながら道を探る。
営業は数字である。ほんの少しのキャッチフレーズをレイアウトすれば良い看板広告の仕事はコピーライターとはほど遠い。独学の業界誌閲覧では及ばない。クリエイターとし学ぶのか?決断したことは、「スペシャリストではなくジェネラリスト」であった。しかしながら、「言葉の力」を身につけることは重大な人生のテーマであると考えた。まずはセールストーク。社会的知識やマナー、ボキャブラリーに劣る小僧はお客様に通用しない。お客様に見透かされる。信じてくれない。新人から一年ほどが経ち中途半端な営業成績で脱落か……。次へのステップには、殻を破る壁を越える自信が必要だと諭され、背中を押されながら一念発起することに。
「なせば成る。なさねば成らぬ何事も」強い思いこそが人生をつき動かす。情熱的なアプローチは営業数字を達成に導いた。特に手法はない。ただ、「やらねばならぬ思いの創り方」だけである。何事も、意志在るところに道は拓かれる。それから、時局は変わり部署の配置転換、挑戦の人生が動いた。
石の上にも薪の上にも
何事もまずは一年やってみよう。一回りすれば一年前の景色が見える。そこで考えれば良い。課題が見えてきたら進もう。私の仕事は、一年の営業で景色が変わることになる。 更に二年。色々なカタチが見えてきたがノイローゼの時代に突入した。 三年やれば一つぐらい花が咲くだろう。まさしくそう思えた。但し雑草の花である。「臥薪嘗胆、常に激しく厳しくやるべきをやる。」机の前に標語を掲げている。苦い思いを忘れず、努力すれば必ず実る思いである。「兎にも角にも強い思いを創る」この信条が、お客様、仲間に対して創る心の根底にあり、広告表現やエンドユーザーを動かす力の源になっている。スピーチもそう。ユーモアの技術は無い。雄弁な言葉も表情も持ち合わせていない。しかし、伝えることの心づくりをすればよい。拙い言葉でも、伝わる。メッセージは心から。
Message
後書き 大いに生きるとは?
やはり誰にでも生まれてきた意味があるはず。それを、感じないと「何様の人生」となっていくのではないかと。常に自己中心に置く軸を、他人軸と交差させながら交わっていく軸を見つける。大前提のスタンスを構えられれば、何とかはぐれずに道を歩んでいけると思うのである。うまくいかず穴に落ちて這い上がれない自分に手をさしのべてくれる仲間。「愛される人間になりなさい」と言われ、「徳を積みなさい」と言われ目指してきたのは「恰好の人」。誠実に生きようとすれば、自然の心得が備わってこようかと。行いと心が合わさって滲み出る自分があればいいなと。これからも、大いに生きていきたいと思うばかりである。
繋ぐ言葉や心意気を創ろうとしても、易々と伝えてはくれないであろうが、これまで私が費やしてきた考動快革の人生に見る「基本」に触れていただければ伝わることもあるだろう。しかしながら、これは私の人生のことであり、やはり皆様にはそれぞれの人生がある訳で、大いに挑戦して楽しんでいただければ何も言うことはない。自分の人生も、会社の歴史も褒められたモノではないが、卑下することも無く、ここまでは何とかやってみたということであろう。まだこれからの人生を、「明るく楽しく元気よく。悦びながら生きること」をテーマに全うしたいと思っている。ここまで、私を支えてくれた方々に感謝と哀悼の心をもって、これからもどうぞ宜しくと言いたい。 合掌
3月11日
加藤孟男・静枝の4男として名古屋市中村区に生まれる
酉年 魚座 A型
米野小学校・黄金中学校・稲沢東高校・龍谷大学を経て成人就業
父・加藤孟男は四日市出身の床屋のせがれ(長男)として
祖父に連れられ名古屋に移住。看板ペンキ塗装業に転身し
自動車部品の塗装など工業製品の塗装業を営み40年を全う
母・静枝は名古屋市千種区出身の長女
嫁ぎ、塗装業を手伝いながら4人の息子を育てた
得意な科目:体育、図工、国語
趣味:スポーツ(野球・テニス・ゴルフ・スキー)、音楽、旅
嗜好:酒類(すべての酒/ピュアな酒を好む)
S級グルメ(A級料理より素材そのものを味わう野趣)
性格:サメかマグロか?(動いていないと生きていけない)貧乏性
度胸はないが好奇心は旺盛。こだわりはないが感動すること
愛読書:素直な心になるために(松下幸之助)
歴史漫画 タイガーウッズ レッスン本
愛車:ボルボワゴン
愛用の道具:アンティーク時計・家具・鉛
1957年